
九州歴史研究会
●小和田哲男先生の述べた大友宗麟についての検証
本書では引用について以下の略称を使用します。
完訳フロイス日本史 中公文庫版=日
増補訂正編年大友史料 田北学 私家版=増訂
先哲叢書 大友宗麟=先宗
小和田先生が【戦国武将に学ぶ】大友宗麟~貿易で強国築いたキリシタン大名、衰退招いた性癖~と題して2019年10月27日 8時10分に書かれた記事がありますが、
https://news.infoseek.co.jp/article/otonanswer_51651/
この文書が一次史料と矛盾した部分があるように思われましたので該当部分を引用し、検証をしてみます。
引用部分は『』で囲みます。
●天正少年遣欧使節は宗麟は関与せず? ~宗麟の書状を偽造したバリニャーノ~
『大友宗麟(1530~87年)といえば、キリシタン大名として知られています。天正少年遣欧使節の発起人でスポンサーでもありました。宗麟の城下町府内(ふない、現在の大分市)には、宣教師たちによってわが国初の育児院と外科病院が建てられました』
と最初に記述していますが、この使節は巡察師ヴァリニャーノが計画し、宗麟は全く関与しなようです。
フロイス日本史の翻訳者である松田毅一先生の「新装版 天正遣欧使節」(朝文社)P29を見てみます。
1587年10月15日のイエズス会司祭ペドゥロ=ラモンの書簡に(1582年に)宗麟は使節が出発するのを見て「何のためにあの子供たちをポルトガルに遣るのか?」と尋ね、これに対し司祭は「あちらへ日本人を見せるためだ」と答えたとしています。
つまり、宗麟は使節を送る理由すら知らない、蚊帳の外にいたようなのです。
ラモンは当時、秀吉の伴天連追放令で平戸にいたので、異常な心理状態によって書かれたもの。とか彼の性格に欠陥があった。という意見もある事を踏まえ(同P30)松田先生は宗麟がローマ教皇へ出した書状の花押が、1572年までしか使用されてないものであり1582年当時は別の花押を使用していた事を指摘しています。
また有馬、大村が同じように提出したものとされる書状、これは同一人物の筆跡であり「長崎でヴァリニャーノが日本人に書かせた事は明白であろう」(同P56)と断じており「天正遣欧使節とはヴァリニャーノが日本における布教事業のために考案した一企画である」としています。(同P67)
簡単な紹介文でもここまで誤解が隠れている位「大友宗麟公は研究成果が広まっていない」大名といえるでしょう。
●軍記物が創り上げた暴君宗麟
私が一番気になったのは以下の部分です。
『■「暴君」ゆえの反乱から衰退へ
ところが、その名君が時には暴君でもあったのです。具体的に、暴君としての側面を物語るものの一つが剣術の稽古です。その頃、九州に流行していた大捨(たいしゃ)流という剣法に凝った宗麟が、近習の若者相手に稽古をするのですが、宗麟は真剣を使って稽古をしたといわれています。けが人が続出したことはいうまでもありません』
宗麟がタイ捨流を学んだ。というのは江戸時代初期に書かれた軍記物【大友興廃記の2巻、五郎御曹司御育ち】の項で書かれています。拙著の翻訳から引用しますと
義鑑公の一男、義鎮公は幼少の時、行跡荒く、手習いにも心を入れず、近侍の侍をその頃流行のタイ捨流の弟子にして、いつも試合をさせた。
14・5歳のまだ手綱の秘術も知らない時に、かんの強い馬に乗ろうとしたり、何事にもおじず、老中たちは「あまりにも強すぎる大将は却ってよくない。五郎さまの代には当家はどうなる事か」と心配して義艦に注進した。
とありますが、タイ捨流の創設者は肥後人:丸目蔵人佐(1540~1629)。
上泉信綱に弟子入りし、1567年に新陰流の免許を受け、同年肥後相良家に仕え諸国を遍歴した。(剣豪P27;新紀元社)とあります。
つまりタイ捨流は1567年以前には存在しておらず1530年~1587年を生きた宗麟が稽古をするには時期が遅すぎるのです。
このことから、タイ捨流を宗麟が嗜んだという話は「粗暴な当主が儒教を学んで立派な君主になった」という説話にするため興廃記の作者が創作した話だと私は拙著にて検証しました。
なお1530年生まれの宗麟は1570年代には老眼が進み、(先宗1628号)1578年以前から病身だったとも宣教師が記述しており、40歳頃になって荒々しいタイ捨流の稽古をしたとは思えません。
大捨流という剣術を学んだという史料がもしかして存在するのでしょうか?
●酒乱で好色という話は大友記の作者の創作
そしてもう一つ誤解されている事ですが
『また、あるときは、政治をほっぽり出して連日連夜、酒宴に明け暮れたともいわれています。
酒宴に関して興味深いエピソードが伝わっています。宗麟が酒宴を催すときは、特にお気に入りの側近たちだけなので、宗麟に諫言(かんげん)をしたいと思っても、宗麟に近づくことすらできませんでした。
立花道雪は、酒宴にふける宗麟に諫言する機会をつくるため、一つの計略を考えました。上方から美しい踊り子の一座を屋敷に呼び寄せたのですが、そのうわさを聞いた宗麟から、「踊り子を連れて登城せよ」との命令があり、登城した道雪が「酒宴ばかりなさらぬように」とくぎを刺したといわれています。』
これは大友記の【義鎮公 女色に耽りたまう事】で語られた有名な話ですが、本文は
義鎮公は幼少の時より政道正しい大将で儒学にも精通していたが、昔の判例通りに仕置きをし、(神罰仏罰などの)怪異を信じなかったため、やがて女色に溺れ、二十歳前後の女性や踊り子を際限なく召し寄せた。
身分が賤しくても美人を差し出せば機嫌よく財産を与え、都より楽の役者を呼び、酒宴乱舞、管弦詩歌にて日々を過ごし好色に傾き、費用は全て万民の苦しみとなり侍の功績は女にかすめ取られた。
これは傾国の元で『(義鎮公は)礼儀を忘れ好色に傾き(中国の)晋の石季倫に成果て豊後は金谷園となるようだ』と眉をひそめない者はいなかった。
戸次伯耆はこれを悔み、乱行を止めようと日々登城したが御簾中は入れない場所だったため(戸次は)踊り子を用意し日夜自宅で踊らせた。
義鎮公は、月見花見酒宴乱舞が大嫌いで踊りが好きとは思えない戸次の行動を聞き『これは自分の為に用意したのだろう』と見物に出た。
(義鎮を見て)戸次は喜び『みつびょうし』という踊りを三度踊らせ、機嫌がよくなった所で意見した。
「恐れ多い事ですが願わくば行状をお正しください。御屋形様は若くても(国が)事故なく治まってますのは、偏に昔の御威光があるからです。それが政治を投げ打ち御簾にこもり、善い事も悪い事も聞かないのでは虎視眈々と再起を狙う毛利が喜びます。義鑑公の時のように戦乱が始まるのは勿体無い事です」と涙して訴えると(義鎮は)「ありがたし」と感心した。
七夕には例年の儀式で御祝いを行い、豊後国中の人がこれを悦んだ。
という内容で宗麟が戸次を呼んだのではなく、宗麟が自分から見に行ったという話になっています。
この話ですが、大友家の年中儀式が書かれた当家作法日記を読むと、大友家には七夕には蹴鞠や連歌など7種の遊びや花の実を届けられたり、寺社を召し出して兎を振る舞うだけで(増訂大友33巻P195)大友公御家覚書(作者不明)という本でも『七夕に重陽(9月9日菊の節句)の御祝い、さしたる儀式なし』(増訂30巻P181)と書かれ政治的な儀式はなかったようで、大友家の事をよく知らない大友記の作者が想像で書いた話である事は想像にかたくありません。
なお宗麟は永禄元年(1558年)7月3日に、宇佐神宮が放生会の祭事を懈怠しているから先例に従い行うよう命じている(先宗552号)のですが、これを勘違いして宗麟の方が政治を怠けていたように書いたのかもしれません。
どちらにせよ当主の乱行という記述は浅川聞書などの日記には見られず、キリシタンという邪宗に傾倒した宗麟の悪口を書きたくてしかたない大友記作者の創作というのが結論でしょう。
大友記と言う軍記物が、いかにいい加減でねつ造が多いのか興味のある方は、拙著;大友記の翻訳と検証をお読みください。
●反乱者は根切り
そして一番の誤解は以下の文書です。
『宗麟の暴君ぶりはそれだけではありませんでした。家臣の妻に美貌の者がいれば、その者を取り上げ、側室にしてしまうというものです。それで泣かされた家臣がどのくらいいたかは分かりません。しかし、たいていは泣き寝入りでした。
ところが、重臣の一人、一万田親実(いちまだ・ちかざね)の妻を取り上げたときには、親実の弟・高橋鑑種が宗麟に反旗を翻しています。その鎮定に3年かかり、これが大友氏衰退の原因の一つだったといわれています』
一万田氏の妻を奪ったという記述は大友記にも大友興廃記にも存在せず、1651年以降に書かれた高橋記が初出でこれを陰徳太平記という毛利家の家臣が書いた軍記物が「宗麟は服部右京亮(反乱の協力者)の嫁を奪い、彼女に生ませた子は毛利秀包の嫁である(増訂14巻350号)」という記述によって広まったと思われます。
ですが、フロイスの記録によると、一万田氏の反乱では「反乱に味方したすべての妻子、親族、ならびに他の大勢の人たちとともに殺させた」(日6P97)とあり、妻を奪ったという記述はありません。
大内義隆の同性愛や秀吉の女性略奪についてまで記述した本なので、仮に宗麟が他人の妻を奪ったなら、それについて何か記述があるはずです。
第一、1553年当時の宗麟は、1551年に父が家臣から殺害され志賀道輝をはじめ、山口に亡命していた田原親宏を呼び戻したり大身の支持を得て当主となれた、基盤が不安定な大名でした。
加判衆という政治のチェック機構があり、彼らの承認なしには恩賞領地を与える事はできず、国が混乱する事を恐れて意見が合わない妻に耐え(日8P117~119)、キリシタンへの改宗も隠居するまで我慢する忍耐の大名でした。
そんな自制心を持ち、当主として相応しいふるまいをしないとならない人物が遊興にふける事ができるとは思えません。仏教を捨てた人間は道徳的に正しくなく、非道の振る舞いをするのだという江戸時代の視点で書かれた文章だと思われます。
細かい所をいえば…
本題から外れるので後回しにしましたが、他にも
『もっとも、宗麟の入信は純粋な信仰心からというよりは、多分に打算的なものだったといわれています。宗麟の招きによって、周防の山口にいたフランシスコ・ザビエルが府内を訪れたのは1551(天文20)年8月ですが、実はその1カ月ほど前に、すでにポルトガルの商船が豊後の日出(ひじ)沖に姿を現しています』
とありますが1541・1545年にはすでにポルトガル人が豊後に来ています。(大友宗麟の戦国都市;新泉社P40)
さらにいえば平戸でキリシタン布教が始まりポルトガル船が寄港するようになって1562年に宗麟が仏門に入ると、キリシタンは豊後から疎遠になり貿易船も止まりますが、それでも宗麟はキリシタンに好意的でアルメイダ神父に都から来た貴族の久我氏を紹介しています。(日7P24)
宗麟のイエズス会保護は貿易の利益に期待した部分も多分にありますが、イエズス会の司祭は外国の外交官や使者であるととらえていたのではないかと思われます。九州の豊後太守として中国の明史にも名が残る宗麟は彼ら異国からの来訪者を日本の代表として受け入れ可能な限り保護しようとした、太守としての矜持があったのではないかとも思えるのです。
他県の方にとっては俗説で笑い物にして消費するだけの存在かもしれませんが、同郷人としては「大分から九州を統一しようと雄飛し、外国との関わりも重視した文化的な偉人が大分にはいたんだ」と誇りたい存在でもあります。
宗麟自身宮崎では寺社を焼いたり、豊後国内でも自分の与えられた土地では僧侶を改宗させたりもしています。これはフロイスの記録にも残る事実です。
ですが実際に行ったか不明瞭な事績が有名になり「大分には碌な人間がいない」と若者たちが郷土に誇りを持てなくなるような事態にならないよう、偉人についての記事は実際の史料を付記しながら書いていただきたいと思う次第でこの文書を書いてみました。
長文をお読みいただき誠にありがとうございました。