
九州歴史研究会
竹田・直入;
交通の要所に領地を持っていた田北氏
田北氏は田北氏は大友家2代の7男。
直入郡田北村と名字が同じですが、鎌倉時代より田北村と別に山鹿郷にも領地を持っていました。分家は地名をとって日差氏・城後氏と名乗った一族もいたと言います。
城後田北系図によると、正慶2年(1333)3月、4代親広は惣領氏泰に従い足利尊氏の上洛に従軍。
南朝軍が籠る玖珠城攻めでは一色頼行を総大将とする幕府軍に参加し頼行からの軍忠状があります。
また大友8代氏時の上意により5代泰直(親直)は筑後へ発向。堀口城に立て籠もる糸田左京太夫を頭領とする黒木、三池、草野、星野らを降参させます。
南北朝の争いで起こった姫岳合戦では、両陣営が8代親増・親景兄弟と9代親忠に内応を誘う書状を何度も出し味方にしようと躍起になっている強大な力を持つ一族でした。
アンケートで「やんちゃキャラ」ぶっちぎりの一位

今回ラインスタンプを作るに当たり
「人生を満喫した無邪気で楽しいキャラが欲しい」と思い、「豊後武将でやんちゃなキャラといえば誰が思い浮かびますか?」とアンケートを取った所一番名前が挙がったのが、田北鎮周です。
仕事を忘れて「遊ぶ、レジャー、食べる」で人生を思いっきり楽しんでる際にお使いください。
何故彼が「やんちゃ」かと言いますと大友興廃記の 宗麟公日州へ御発向 という話で
鹿児島の島津と宮崎の統治を賭けた戦いで、宗麟が悪い禅宗(実際はキリスト教)に入信し、出陣した武将の士気が下がっている中、田北は「各々は思うようになされ。この鎮周は目の前に見える敵を、のびのび(見るだけの)分別は同意できない。夜が明ければ打ち出し、討死して見せましょう」と言い捨てて自陣に帰った。
とか
鎮周の陣では明日討死しようと名残を惜しんで大魚を焼き酒宴を行なっており、(諌めに赴いた人間は)何も言わずに帰還した。
など戦うと言うより死にに行くというポーズを隠そうともせず内部の空気をズタズタに壊しすという『やんちゃ』で済まされるレベルじゃない暴走をしているのが原因と思われます。
織田信長の家臣に森可成というやんちゃキャラがいますが、それより酷いのではないでしょうか?
出典によって戦犯は変わる
ところが、これよりも先に書かれた大友記という本では、大分市丹生の領主【齋藤鎮実】という人物が自暴自棄になり、家宝の鞍を焼いて酒を温めたり指揮官の悪口を公言し、無謀な突撃をして敗北したという話になっています。
戦いに参加した人間は殆どが全滅し、当時の記録にも内情は残っていないので事実は不明です。
ただ物語を描くのに「わかりません」では恰好がつかないので、想像で書いたのではないかと思われます。
鎮周は養父の田北紹鉄とともに豊前や筑前の戦いにも参加した若手武将の有力者でしたが、この戦いでは養父の庇護を離れ、単独で出兵しています。養父の紹鉄が付いていれば生還できたかもしれません。
彼は36歳という若さで死亡し、息子がいなかったので養子が田北の家を継ぎます。
なお史実では永禄12(1569)年6月23日立花表に弥十郎名義で在陣(大県32 1461号)相模守として天正6(1578)年4月義統の日向進行に従軍し土持弾正少弼親成を討伐する(大県33 P9号)天正7(1579)年1月26日には義統から田北相模守鎮周の戦死の忠義を賞される(大県32 1681号)書状があり、この時点で死亡が確定したことがわかります。
法名;真宝院