
九州歴史研究会
玖珠;
鬼嫁ならぬ鬼御前がいた土地
玖珠は広大な山に囲まれ侵入路が限定される玖珠盆地は多くの外敵を拒み、『国侍持切の土地』として自主統治を続けた土地です。
湯布院から続く、今は無き水分峠ドライブインは昭和時代旅行客で賑わい、昭和60年代まで冬に路面が凍結し多くの人が立ち往生する場所でも有名でした。
夏場は龍門の滝などが涼しく、秋には童話まつりがあるこの土地は京都の清原氏の末裔が治めていたと言われています。
12家に分かれた玖珠郡衆


玖珠郡は清原氏一族が支配した土地で、余所者は国崎の岐部氏が土着した位です。
豊後清原氏は、伝説では平安時代末期 天延元年(973)に笛の名手、少納言清原正高(一族に清少納言がいたという)が醍醐帝の一の宮章明親王の姫、小松女院と密通した罪で但馬介にされ九州に左遷され玖珠郡 山田郷の地頭 矢野検校藤原久兼の館に入り、その娘を妻としたことから始まったといわれています。
島津軍に抵抗した鬼御前(NO鬼嫁)

玖珠郡は大友氏から半自治を認められ、様々な戦いに参加します。
1586年に鹿児島の島津軍が攻めてきた時も、大友家の家来が多く寝返る中、味方をし続け抵抗をしました。
この時に日田帆足氏の末裔、帆足正周の記した「山ン城合戦記」によると、鬼御前と称された女性がいました。
これは鬼嫁という意味ではありません。
彼女は古後攝津守の娘で帆足鑑直の妻。娘は森鑑高の妻。
身長5尺8寸(175cm)という長身で弓馬刀法、大力無双容姿端麗心根の優しい女性であり、鬼のように強い女性だったようです。
彼女は夫と日出生の山ン城に籠城し、500の兵で島津軍2000を夜襲し鹿伏岳まで撤退させ無事でしたが、角牟礼城に籠城した娘にも
「少しの油断より大事に及ぶものにて候えば、昼夜心を用い給わんこと肝要に候。
合戦難儀に及ばん時、あわてて自害し給うべからず。ただ本丸を枕にて討死し給うべし。もし未練のはたらき候わば、七生までの勘当たるべく候」と手紙を送り、角牟礼城も無事勝利しました。
自殺する位なら死ぬまで戦いなさい。と合理的なアドバイスを送っている鬼…いえ鬼御前でした。